僕は、東京に住んで22年だが、大阪に来ると何故か元気になる。生活する場所ではないという気楽さがあるかもしれないが、大阪の街を歩くと、行き交う人々を見みているだけで楽しい気分になる。
 年齢層がグチャグチャしていて幅広いし、表情が「へん」でおかしな顔した人が多い。
特におじさん、おばさんが個性的で愛嬌があってずうずうしい。そんなん見てるとこっちも力が涌いてきて「やったるでー」っていう気持ちになる。
 街も、ここまでするかっていうくらい派手派手ポップだったり、やたらきれいな所ときったない所があって、そんなきったない所でも妙な味わいがある。街全体が力強く、猥雑なノイズを発信している。
 大阪から東京に戻るとホッとはするが、自分が大きな歯車の一部になったような感覚と気持ちの悪い妙な圧迫感を受ける。
 人の顔も仮面を被っているみたいだし、みんな、なんかの役を演じているみたいに見える。渋谷は「若者の街」、 巣鴨は「老人の街」みたいに棲み分けが進んでいて、好きじゃない。
長く住んでいるから愛着もあるけれど、それにしても「もっとなんとかならねえのかなー」と呟いてしまう。
 日本で生きているんで、この国のことや、民族の事やら、それらに関係するアートのことをいろいろ考えてしまうのだが、僕が考えている「日本」というものが、大阪に来ると揺らぐ。
僕が考えていた「日本」 は、さまざまな情報が行きかう「東京」 という環境からなっていて、情報は単なる情報だったり、時に理念的、また観念的であったりする。その東京という大きな情報のシステムが、日本とイコールな錯覚に囚われてしまうのだ。
 でも現実には、そういったシステムと無縁ではないにしろそれとは単なるシステムで生きている人達がいる。大阪にいると自然にそんなことを考える。

「日本は」とか「日本人は」っていうフレーズで語られるときの「日本」の中に、今語っているその人自身が含まれていないって感じることが多い。「語る私」が含まれない視点で日本を批評したり切り刻んだりしたりしている。しかもそこで語られる「日本」は、東京というシステムに覆われた「日本」で、語っているその人が含まれず、現実の日本とは微妙にずれている。大阪に来ると「日本」という東京が造りだしたシステムが幻想かもしれないと気がつく。
 だから大阪にきて、アートのことを考える。アートもまたノイズなんだ。

僕が20才位の頃よく聞いた音楽で「ノーニューヨーク」というアルバムがあった。
このアルバムはブライアン・イーノがプロデュースしたニューヨークの4つのノイズバンドのもので、ニューヨークという街の体臭がプンプン臭ってきて、今聴いても鳥肌が立つほど生々しい。
「都市の感受性」っていう言葉があったけれど、都市が持っている体臭や感受性って何なんだろう。アートはどれだけ都市のエネルギーやノイズと関係あるんだろうか。
僕が感じる東京のアートの傾向は、生真面目で、コンセプト重視のモノローグ的で固い感じがする。大阪のアートの傾向は、コンセプトも考えているのだろうけれど、コンセプトより感情が強くて、ユーモアがあってゆるーい感じ、他者とのコミュニケーションを求めているものが多い(私はそうでもないよっていう人当然いますよね、これあくまで僕の個人的な見解です)。東京のギャラリーは、前回書いた巣鴨や渋谷の街みたいに棲み分けが進んでいて、現代美術の作家は現代美術のギャラリーでしか発表しないし、公募団体系の作家はやっぱり公募団体系のギャラリーでしか発表しない。たとえば、現代美術中心のギャラリーでイラストレーションの作家が発表することは、ほとんどない。
発表された作品を見に来るのは、ほとんど同じジャンルの人達中心となってゆき、作家、見る人の共通の価値基準が、必然的に生まれてくる。その価値基準はある面では
大切で、必要なことなんだけど、反面せまい専門的な領域に閉じこもりがちになり、専門外から見れば、いったい何のこっちゃっていうような状態になってくる。
 政治学者の丸山真男が日本の学問についてタコツボ化していると批判していたけれど、日本のアートの世界も同じようにタコツボ化しつつある。タコツボの底が抜けて外に出られればいいのだけれど。
以前韓国ソウルの現代美術館にいって驚いた。現代美術といっても墨絵、膠絵、近代的な抽象絵画まで展示されていた。僕が考えていた現代美術のイメージとは異なっていて、現代に制作されている作品だったらOKって感じで(近代美術館がないとか、選考基準に問題あるとか、色々あるかもしれないが)、ソウルの雑多さとシンクロしていて少しうらやましかった。
大阪も東京ほどじゃあないけれど、ギャラリーの棲み分けが進んでいて、現代アートはそのタコツボ的状況から自分達で目に見えないフレームを作りだしている。そのフレームは前回書いた「東京というシステムに覆われた『日本』」と僕には重なって見える。
都市のノイズやエネルギーはアートととても関係がある。アートは、僕たちの生きている現実の感覚を反映しているし、都市のノイズやエネルギーは僕たちの生きている現実の感覚が作りだしたものだから。

東京にも本当はすごいノイズやエネルギーがあるのに、どこか滞っていて湧き上がってきにくい。
 アーチストは、都市のノイズを聞き取り、エネルギーを吸いとって、僕たちの生きている現実の感覚を表現する媒介する魔術師なんだと思う。

僕はサッカーを観るのが好きで、サポータ−というわけではないが、スタジアムにも足を運ぶし勿論テレビでもよく観る。何故サッカーを観ることにこれだけ熱中するのだろうか。単純におもしろいという事もあるけれど、サッカーを通じで色々と考えさせられるからだ。
90年イタリアワールドカップの イタリア代表チームの選手の動きが美しく、みていて飽きなかった。ボールが動くと、それにあわせてフィールドプレイヤー全員が一個の有機生命体みたいに動く、まるで魚群のような一体感で。その動きは、徹底的になされた訓練によって、初めて獲得されるものなのだろうが、とても自然な動きの様にみえる。強弱、長短のパス、ドリブル。そして、ボールを受け意識的にリズムを変える緩急によってボールが動く軌跡は、線のからみあいによる抽象画のような拡がりと音楽性を感じさせる。フィールド全体として見るとエレガンス、局地的に見ると格闘技の激しい肉弾戦。そんなコントラストが織りなす抽象画の小宇宙が、壊される瞬間がある。たった一本のパスによって。
それまでの心地よいリズムによってつくりだされていた小宇宙は一本の決定的なパスによって壊れる。有機生命体はバラバラになり、リズムは崩れ、時間は一瞬とまり、フィールドの空気が変わってしまう。そんな創造的な一本のパス。絵画でもそんな一本のコペルニクス的パスの様な線を引くことにより、その絵がガラッと変わる決定的な「線」がある。その決定的な「線」は、画面を活き活きとさせ、一般的な画面から意外性のある画面に変容される。目に見える点において、単に「線」だったり「パス」だったりするのだが、それは、違う。それはひとつの奇跡で、創造的な「何か」の「現れ」だ。その創造的な「何か」を造りだす力をインスピレーションや創造力と呼ぶのだ。

前日本代表の岡田監督は、日本サッカーのウィークポイントとして、選手一人一人の判断力、創造力の乏しさを挙げ、それは、日本の教育の問題に繁がっていくと発言していた。それは、サッカーの問題だけでなく、社会の問題、また当然アートの問題と深く関わっている。僕が考える人間の判断力、創造性。それは受け身ではなく、傷ついても前にでようとする能動性、本能に近いような自由であろうとする意思、そして自分自身の頭で考える訓練によって培われると思う。僕の経験からいうと、それらの能動性、意思、自分自身の頭で考えることを志向しようとすると、現代の教育システムは、まずそれらを潰しにかかってくる。僕自身、中学高校時代そんな体験をした。
今思い出しても、屈辱と怒りで膝が震えそうになる。
教育も含めた今の日本の社会にとって能動性、意思、自分自身の頭の考えることなど、うるさいノイズみたいなものだろう。

だからアートはノイズだし、人間はノイズをたくさん持って、それを外に出すことによって、本当の意味でのコミュニケーションが生まれ、エネルギーが生まれる。そしてそんなコミュニケーションや、エネルギーからでてきたインスピレーションや創造力が様々な問題を変革することができる。そのインスピレーションや創造力が具体化したとき、それはアートと呼ばれるのだろう。(おわり)

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